気怠い暑さがオレの身体をダメにする。
暑くて、何もしたくない。クーラーを付ければ? と言われそうだが、無職のオレにそんな電気代はない。家があるだけ、まだマシだ。
以前、窓を開けてみたことがある。しかし、隣の家から流れてくる室外機の風が、オレを苦しめたので、結局、冷蔵庫から取り出したかび臭い氷をかじりながら、この暑さをやり過ごす。
さすがに夏バテしてきた。久々に精のつくものが食べたい。例えば、カレーライス。カレーライスは大人も子供も好きなものだ。そう思っても、安売りのカップ麺すら家にはない。
確か、近所のドラッグストアは、今日、ポイント五倍デーだったよな。カップ麺を調達しに行くのもいいよな。
でも、このカンカン照りの中、外へ出るのは、死に行くようなものだ。
出かけるのは夕方にしよう。
オレはなにげにテレビを付けた。
昼の情報番組がやっている。どうやら内容は子供の自殺問題だった。
近年、ガキの自殺が増えているらしい。
子供もいない、結婚もしていない、彼女もいないオレには、無関係の話だ。
「ですから、子供のイジメ問題は大人の介入を考えなければいけないのです」
シャツとブレザーという軽めの格好ながら、MCも他のコメンテーターも、真剣に聞いている人物がいた。
「荒垣ヒュウマ」だ。
チャラそうに見えていても、嫌らしくない明るい髪色と髪型、爽やかな笑顔がステキと、以前働いていたコンビニで、女どもがグダグダ笑っていたのを思い出す。
荒垣ヒュウマは児童をケアしている心理カウンセラーらしい。
畑はただの美術系のくせに。心理学どころか大学も出てねえだろうが。
くっ。こいつさえ、いなければ、オレだって……!
見たくもない男の顔を見て不機嫌になり、オレはテレビを切った。
そして、毛布の中に潜り込み、二度寝した。
起きると、時計はもう夕方の時刻を指していた。とは言っても、まだまだ明るい。そして暑い。昼間よりは涼しいか……? と首をかしげるレベルで暑い。
とにかく、今日の夕飯を買いに行こう。
そうだ。ドラッグストア帰りに、コンビニでおにぎりを買おう。
カレーライスは無理でも、お米は食べたい。
炊飯ジャーが壊れてからというものの、お米を一口も食べていないのだった。
ドラッグストアで一週間分のカップ麺を買った。夕方は主婦層が多いのか、すごく混んでいた。レジ並びだけでもしんどい。ただ、エアコンが効いていて、涼しいだけマシか。
そんなことを思いながら、会計を済ますと、その隣のコンビニに向かった。
一番安いツナマヨおにぎりを一個だけ買う。カップ麺よりも高いので、今日の夜はこれ一個になる。正直、腹持ちは不安だが、耐えるしかない。マヨネーズのポテンシャルに頼ろう。
無事、会計を終え、自動ドアが開いたとき、肩にヒヤリ冷たいものがかかった。
何事かと自分の肩を見ると、アイスコーヒーでベトベトだった。黒いシャツを着ていて、染みは目立たないとはいえ、コーヒーがしたたりおちる。どうしたものかね、コレ。
足下には、うっぷした長い黒髪の女。白いワンピースを着ている。何故かキラキラまぶしく感じた。
「おい、大丈夫か?」
しゃがみ込み、オレは女に尋ねる。女は顔を上げる。その顔を見たオレは息を呑んだ。
肌は透明感があり、スタイル抜群の……まるでモデルのような美女だった。オレが今までデッサンしてきた女性たちの中でダントツで美人だ。二重の目は瑠璃色をしており、そのまつげの長さたるや、色気のなにものでもない。
美女はオレを上目遣いで見る。ドキリと胸は弾ける。
「だ……大丈夫ですか? ごめんなさい! 服! 服が!」
美女はオレのシャツを見た途端、慌てて、カップにばらけた氷を拾い始める。
相当、パニックになっているようだ。
「オレは大丈夫だよ」
こんな美女に出会えただけで、今日はラッキーかもな。できれば、これがきっかけで連絡先も交換できないかと、下心丸出しにならないように、
「ちょっと、落ち着こうか」
美女を立たせたオレは、コンビニ店員にこぼれたコーヒーの掃除をお願いすると、そのまま美女の手を引き……。
はて、これから、どうしたものか。
彼女がいなかったわけじゃないが、学生時代だし、しかも盗られるような男だ。
こんな美女、オレには持て余しすぎている。
どうしたものかな……。
「あ……あの。そのままの格好じゃ、風邪を引いてしまいますので、お詫びも兼ねて、わたくしの家に来ませんか?」
え?
オレは耳を疑った。
美女の家に行ける……だと?
一応、挙動不審ながらも断りをいれたが、強引に連れて行かれた。
これ、美人局じゃないよな……?
美女の家はまるで独居房みたいな部屋だった。
マジでマジでマジで!
古いアパートなのは、外装から分かったんだが、中はタンスのひとつもない。あるのは、テレビと木の本棚とエアコンのみ。ぎっしり小説からワケの分からん化学の本が並んでいる。エアコンはとても効いていて、居心地が良い。
真ん中には、四角いちゃぶ台が。そのちゃぶ台の上にはラップトップのコンピュータと難しい単語が並んでいる教科書がある。この美女は大学生か? 一応、流しとトイレはあるようだが、お風呂は銭湯らしい。
美女からタオル代を含めた銭湯代と着替えをもらった。一応、断ってはいる。しかし、美女の押しが妙に強いのだ。オレを勘違いさせようとしているのか? そう疑ってしまうレベルで不安になる。
押し入れのボックスから出された着替えのTシャツには、「Stuff」と書かれてあった。どうやら、人気アイドルグループのライブスタッフ用のTシャツのようだ。
美女曰く、安心してください、新品です。妹が余り物としてもらってきたものですから、きっとTシャツも喜んでくれます、とニコニコ笑顔で見送られた。
銭湯では、久々に足を伸ばし、ゆっくり入ることができた。まさか、あんな美女にここまでされるなんて、オレに運が向いてきたか?
いや、美人局の可能性はまだある。
オレは疑り深い男だ。慎重にいかねば。
美人局に遭う前に、このまま、帰宅しようとしたのだが、しまった。
買ったもの一切合切美女の家に置いてきてしまった!
ああ……。仕方がない。金がない自分が美人局に遭っても、ない袖は振れないと、ごねるしかないな……と、少し落ち込みながら、美女の家に向かった。
美女の部屋の呼び鈴を鳴らそうとした瞬間だった。
とても良い香りがする。このスパイシーで懐かしい香りは……。
カレー! カレーの香りがする!
オレはこの匂いがかげただけでも、胸が弾けてしまう。自分が食べられるかなんて、保証はないのに。
ガチャリとドアが開いた。美女の不思議そうな顔で、オレは顔が熱くなる。
「ああ、買った物を置いて行かれていたので、また来ると思っていました。一緒に夕飯、どうです? カレーですけど」
まさか! オレは持っていたものすべて落とした。そして、その場で膝から崩れ落ちた。
神様っているものなのか!
このあと、どうなってもいい! カレーが食えるのならば!
「どうされました?」
美女は慌てた様子で、オレの肩を叩く。
「いや……。カレーが食いたいなあ……って思っててよ……。でも……」
言葉に詰まり、それ以上、何も言えなくなる。
「とりあえず、中に入りましょう」
オレは美女の肩を借りて、部屋の中に入った。
目の前のちゃぶ台の上には、カレーライスとミニトマトが入ったサニーレタスのサラダ。そして、ドレッシングのボトルがあった。
夢を見ているのか? オレは夢を見ているのか?
目の前のカレーライスにスプーンを持ちながら、呆然としていると、一体どうしたのです? 下手ですが、ルーを使っているので、マズくはないはずですよ、と美女は鈴のように笑う。
オレはいただきます、とつぶやくと、カレーとご飯を丁度良いバランスですくい、口の中へほおばった。
ああ、カレーだ。カレーライスだ。
これは、夢なんかじゃない。夢であってたまるか!
サラダもがっつく。ああ、小さい頃、野菜は嫌いだったけど、こんなに美味いものだったなんて……!
「おかわり、いりますか?」
空いた皿を見た美女は静かに笑む。この笑みは魔性の笑みだ。でも、乗るしかない。
「ください!」
オレは皿を差し出した。
合わせて三皿食べてしまった。
久々の満腹だ。食後の幸せは、本当に幸せだ。
この満腹感に揺られていた。
目が覚めると、オレは布団の中にいた。
「え?」
オレは寝ていたのか?
部屋は……。昨日の美女の独居房だ。しかし、美女はいない。
テレビは昼の情報番組を映していた。
そんな時間か!
そして、荒垣ヒュウマが堂々とコメントをしている。
ムカつく。
しかし、それ以上に、今の自分の現状を把握しておきたい。
周りを見渡す。この部屋、独居房みたいな殺風景すぎて、不気味だ。
上を見ると、エアコンがあるので、このせいで寒いのかと思ったが、別の寒気がする。
あのカレーライスは夢だったのか? では、何故、オレはここにいる……?
混乱していると、ガチャリとドアが開く音がした。
「あ、起きたんですね。どうですか、目覚めは?」
美女がいた。昨日のワンピースと違って、「焼売売り切れました」と書かれたロングTシャツを着ている。どこで売っているんだ、そのシャツは。
いやいや、今の状況の把握からだ。
尋ねようとすると、
「わたくし、隣の妹の部屋で寝ていたので、大丈夫ですよ」
満面の笑みで美女は答えた。
この分だと、どうやら、美人局ではないようだ。ひとまず、安心しておこう。
「自己紹介がまだでしたね。黒谷鏡子と呼んでください。お兄さんの名前は?」
「オレは……志津山キヨシ。昨日のカレー、マジ美味かったよ。お礼を言わず、眠ってしまって、申し訳ない。あと、あんたを疑っていたことを謝らせてくれ」
オレは布団から出ると、立ち上がり、頭を下げた。
「疑っていた……?」
「あっ。いや、あんたがあまりにべっぴんさんだったからね。絡まれたのかなと……」
鏡子はくすりと笑った。そして、不気味な高笑いをした。
い……一体……?
「絡みはしましたね。コーヒーをこぼしたのはわざとですから」
一体、どういう意味だ……? 呆然としていると、
「カレーを三杯食べなきゃいけないほどだとは思っていませんでしたが、あなた、絶望していますよね?」
突然、鏡子は何を言い出したのだ?
「そんな挙動不審にならなくてもいいですのに」
コーヒーをこぼしたのはわざと? 絶望? 突然、そんなことを言われたら、挙動不審のひとつもなる!
反論の一つもしたいが、恐怖で身体が凍る。
「あなたの絶望、実は見てしまっていまして……。これですよね」
鏡子は最新型のスマホを取り出すと、動画を流した。
それは……。それは……。
人生最悪の出来事の動画だったからだ。
内容は伏せておく。自分からは言いたくない。
ただ、あまりに酷く……今でも、オレの身体にも心にも残るキズを負わせた事件だ。
利き腕の古キズが痛み、恐怖心で心拍数があがる。
オレの凡ミスなら、まだ分かる。しかし、これには主犯格がいる。
「この動画の犯人はこの人ですよね?」
鏡子はテレビを指さした。
荒垣ヒュウマが映っている。
そうだ。オレは荒垣ヒュウマにイジメよりもひどい屈辱を与えられた。
「実は、わたくし、人の絶望を撮ることができるのです。あなたがあまりにひどい絶望を抱えているのに気がついてしまって、試しにあなたの絶望を撮ってみたんですよ。簡単に言えば、盗撮ですね。あまりに酷いので、わたくしは動かなくてはいけません。あなたの気持ちを話していただけますか?」
この女、魔物か?
オレをどうしようって言うんだ。恐怖心で腰から崩れ落ちた。くちびるはわなわな震える。
絶望を撮ることができる? そんなことが可能なのか? 何者なんだ、この女。
この世の者ではないのなら、この美しさは納得できるが……。
「相当、怖い思いをされたんですね。自分から言えないようなら、こちらから……」
鏡子はコホンと咳払いをすると、指を鳴らし、
「闇の力を以て、汝、本性を顕さん! 話すだけ話したら、すっきりしますよ!」
謎の呪文を唱え、オレに指を指した。
その瞬間、今まで親にも見せたことがない、隠していた負のダムが決壊した。
号泣した。子供のようにだだをこねるように、号泣した。
「オレは! オレは! 美大に行きたかっただけなんだ!」
鏡子は黙って聞く。
「オレは高校は美術科で、彫刻学科に行きたかったんだ。3Dのモデリングに興味があったから。でも、あいつが! 荒垣がオレの夢をぶち壊しやがった! あの事件のせいで! イジメなんか甘いものじゃない! 事件だ! 事件なんだよ! オレの腕をぶっ壊しやがった! でも、誰ひとりまともに聞いちゃくれなかった! 高校卒業したあとはフリーター。そのまま十六年経ってしまった!」
雪崩のように、気持ちを吐き出すと、またわんわんとガキのように大声で泣いた。
「あのまま、死ねばよかったんだよ。あのまま……!」
心の決壊が静まり、静かにそうつぶやくと、
「死が人の救済になってはいけません」
鏡子は憂いを持った瑠璃色の目で、オレを見た。
「死が救いになるのならば、それはもうすでに新しいカルト宗教です。信じるものを変えなければいけません。さて。今、あなたには選択肢があります」
「選択肢……?」
「ええ。一つはこのことを、今ここで、キレイサッパリ忘れること。もう一つは、この動画を週刊誌に送りつけること。やられたことを公開するんです。ざっくり言いますと、復讐ですね」
「復讐……?」
オレは復讐という二文字が唐突に思えて、
「は? バカを言うなよ。こんなの、でっち上げだ、って言えるだろうが!」
思わず怒鳴ってしまう。
「キヨシさん。この動画はあくまできっかけですよ。バタフライエフェクトを起こしましょうよ」
「バタフライエフェクト?」
「ええ。小さなきっかけが大きな出来事に繋がるってことです。今、あなたがこの動画をどうするか選択できます。この動画を消すか、それとも告発するか。告発してもどうにもならないかもしれません。でも、どうにか動く可能性に賭けてみませんか? だってほら、ここまで目立っている人ですもの。誰か食いつくに違いありません」
茶目っ気のある目で鏡子はオレを見た。
この目にオレは吸い込まれそうになる。頭を振り、自分の足をぼぅと見た。
このままで終わらせるわけにはいかないのは確かだ。
失うもんはもうオレにはないのだ。
やれるものなら、やってみたい。やってやろうじゃないか。
「分かった。送ってくれないか? どこに送る?」
オレの質問に、
「大手週刊誌すべてです。ちょっとしたツテがあるんですよ」
鏡子はウィンクした。
それから一週間後、テレビから荒垣ヒュウマは消えた。逆に、今まで荒垣を賞賛していたコメンテーターからバッシングの声がいくつも出た。
スマホの声では、「子供の教育に対して色々言っていたのに、実際はこうだったなんて、人は見かけによらないね」など、一般の人もバッシングしていた。
手のひら返しやがって、と思いながらも、ざまあみやがれとも思った。
オレのところにも取材が来た。モザイクで声も変えてもらった上で、その取材を受け、涙を流しながら、出来事をありのまま話した。
それに対しても、情報番組では無責任にあーだこーだ議論していた。
オレはせいせいした。
復讐はなったのだ。
これでいい。もうこれ以上はいい。
あいつもオレと同じ惨めな思いができたなら、それでいい。
これでいつ死んでも良いなと思いながらも、死が救済になってはならないという鏡子の言葉に、そうだわな、と万年布団の中で、くすりと笑った。
心機一転。
オレは就職活動をはじめた。
しかし、フリーターではない。正社員だ。
今まできちんとしたキャリアはなかったが、美術科出身ということで、デザイン事務所での書類選考が通った。
オレはウキウキで、その手紙を何度も見る。
顔がほころぶ。今までにない高揚感だ。
まだ採用されていないというのにな、と自虐しながらも、明日の面接に向けて、スーツにしわがないか確かめる。
突然、呼び鈴が鳴った。
こんな夜もふけた時間に誰なんだろう。
鍵を解錠し、ドアを開けると、ナイフを持った覆面の男が、オレの前に立っていた。
オレは文化畑のモヤシ人間だ。覆面の男が振りかぶったナイフを避けるので一生懸命だ。
外へ出た。喘ぎながら、走る。
しかし、すぐに覆面の男に手を掴まれてしまった。
「お前さえいなければ……!」
覆面の男は小さくそう言うと、オレに向かって、ナイフを振り下ろした。
ああ、人生最高の日で死んでしまうのか。
目をつぶったオレは、神様、どうか天国へ……と無宗教のくせに、祈りをささげた。
その瞬間、パシンという打撃音が聞こえた。覆面男のうめき声も聞こえる。
「あなた、当たる相手を間違えていますよ」
目を開けると、覆面の男の腕をひねり、押し倒している鏡子がいた。ワンピースは胸元が少し裂けている。ナイフは男の手から離れていた。
オレは助かったのか……?
未だ、心臓が激しく鼓動している。
鏡子は男の覆面を取った。
荒垣ヒュウマだった。
「なんでお前が……」
その言葉に被さるように、
「お前が僕の職を奪ったんじゃないか! 僕の家には電話やイタズラ、カミソリの刃が送られてくるんだぞ! ふざけるな! 貴様みたいな自堕落な男に僕の人生を滅茶苦茶にされてたまるか!」
荒垣は叫ぶ。
鏡子は大きく笑ったかと思うと、真顔で腕の関節をキメた。荒垣のうめき声が響き渡る。
「あなたのその絶望、最高ですね! 職を奪ったのはキヨシさんじゃないです。過去のあなたですよ!」
鏡子はまるでジュエリーをもらったかのように嬉しそうな声でそう言うと、もう一段階強く関節をキメたようで、鏡子が離れたあとなのに、荒垣はうめき声を上げ続ける。
「世の中って最低ですよね。持ち上げるだけ持ち上げて、たたき落とす。そう、この荒垣ヒュウマさんのように。荒垣さん。ねえ、あなた、テレビにチヤホヤされて、満足だったのですね。それを奪われたから、キヨシさんを襲った。あはっ。見てて滑稽です! 面白いものを見せていただき、感謝しますよ! あはっ」
立ち上がった鏡子はもう一度高笑いをした。とても楽しげで……邪悪な笑いだ。
サイレンが聞こえ始めた。
「あら、警察が来たようですね。遅すぎますよ」
鏡子は何事もなかったかのように微笑む。
「多分、ほら……。暗くてよく見えませんが……。荒垣さんを追いかけている記者が何人もいるんですよ。きっとそのうちの誰かが通報したんでしょうね。意外と社会は見ているのですよ」
鏡子は一礼すると、
「あなたは希望の切符を手に入れました。その切符でどこへ行くかはあなた次第。わたくしは、もうあなたと会うつもりはありませんし、きっと会えないでしょう。では」
鏡子は今までで一番爽やかな笑顔をした。
そして、瞬きした瞬間、消えた。
呆然とするオレに、警官が駆け寄り、
「大丈夫ですか?」
と、肩を叩いた。
それからの話をするとしよう。
オレは、面接も通り、今は小規模ながらデザイン事務所に勤めている。
3Dのモデリングこそできないものの、大好きな美術系の仕事に携わることができるのは幸せだ。
今は契約社員だが、そろそろ正社員になってもいいよね、と上司に言われるぐらいは、会社に貢献できているようだ。
オレが求めていたもの……それは「認めてもらうこと」だったのだろう。
学生時代の事件がきっかけで、認めてもらうそのものを、拒絶していたのかもしれない。
今は仕事のやり直しさえ、オレは自分自身が必要とされているんだという満足感に溢れていた。
荒垣ヒュウマのその後なのだが……。情報番組であのナイフ事件は面白おかしく報道された。まったく、殺されかけた人間の身にもなれよ、と思いながら、昼食時、近所の定食屋さんで粉っぽさがたまらないカレーライスを食べながら見る。
そして、刑事事件として、オレの殺人未遂で裁判を受けている。オレも証人として呼ばれた。
オレを助けてくれた人物――鏡子も証人として呼びたかったようだが、警察をもってしても、見つからないようだった。
鏡子にコーヒーをかけられるという小さな出来事が、ここまで大きな事件になるなんて、思いも寄らなかった。
これこそ、バタフライエフェクトなのだろうか。
何度か、あのカレーライスを食べた独居房みたいな家を探したことがあるが、どこにもない。
オレの探し方が悪いのか?
それとも、二度と会えないからか。
ふうん。それはそれでいいじゃないか。
希望の切符を鏡子からもらった。
鏡子が例え「悪魔」だったとしても、それは事実だ。
オレはその切符で、「オレの旅」をしている。
それでいいんだ。それだけでいい。
オレ自身は「小さなコト」でも相手からしたら「大きな出来事」になり得る。世の中なにがどうなるか分からない。
オレをいじめていたことは、あいつにとっては「小さなコト」でしかなかったのだろう。でも、オレにとっては「大きな出来事」だった。
あいつはそれに気がつかなかった。
だから、自滅した。
オレはオレ自身を律しよう。
毎朝、お布団の中でそんなことを軽く心に誓う。
今日も頑張ろう。
春の朝は日差しがまぶしいなあと思いながら、事務所へ通勤するために、最寄りの駅へと向かった。